2019年 08月 15日
父フィリッポス2世の非業の死によって、アレクサンドロス大王は弱冠20歳で王位を継承しました。 しかし圧倒的な存在感を誇ったフィリッポス2世に比べ、あまりにも若く、そのすべてが未知数であった新王の即位に、かねてから抑圧されていた諸ポリスはじめ周辺国が不穏な動きを見せ始めます。 すかさず大王は、前338年に父が締結したコリントス同盟の再確認のため、ペロポーネソス半島を訪れました。 この同盟は東の世界帝国ペルシアに対抗すべく、フィリッポス2世が自らの統帥権をギリシアの諸都市に認めさせた重要な遺産でした。 この大王の素早い行動と、王子時代の戦場での活躍もあいまって、恐れをなしたギリシア都市は同盟の堅持を約束したのでした。 次に大王は、元々反抗的であったトラキア地方の討伐に向かいます。 マケドニアの北にあった古代トラキアはほぼ現在のブルガリアにあたり、当時は野蛮な人間が棲む未知の世界として恐れられていました。 マケドニアとはロドピ山脈で分けられており、国土の中央には背骨のようなバルカン山脈が東西に連なっています。 現在は美しい田園が広がっていますが、かつては森林に覆われた原始の森で、蛮族といわれたトラキア人がマケドニアを悩ましていました。 紫印がフィリピ遺跡 トラキア進軍の足跡として特定できるのは、フィリッポス2世が建設したフィリピ遺跡で、「アッリアヌスの東征紀」に登場します。 大王伝の記録としてはローマ時代の四作品がありますが、「アッリアヌスの東征紀」はもっとも有名であり本旅のベースにもなっています。 さてフィリピ遺跡はピリッポイとも呼ばれ、文字通りフィリッポス2世が前356年に建設した都市です。 その後もヨーロッパとアジアをつなぐ交通の要衝として、ローマ時代にいたるまで「小ローマ」と呼ばれて栄えた町です。 ちなみに当時は建設者を都市名にすることがあり、今後も大王の名前をつけた町が登場します。 フィリピはトラキア対策とペルシア遠征のために築かれた基地で、現在はギリシア領ですが当時はマケドニアの最果てにありました。 遺跡は2016年に世界遺産になりましたが、訪問当時の2008年は広大な敷地にバスツァー客が点在するだけの静かな佇まいでした。 見応えのある大構造物はほとんどがローマ時代のもので、この中から大王の痕跡を探すことは絶望的でした。 遺跡は町から離れた幹線道のそばにあり、東西南北がそれぞれ約400、300mの大きさです。 古代この辺りは沼地でだったそうで、これだけの都市を築いた叡智に感心します。 遺跡内を散策していると、思いがけず「パウロの牢獄」という遺構が目に入りました。 パウロといえば有名な初期キリスト教の伝道者で、エーゲ海周辺で布教活動を行った聖人です。 訪問時はあまり気にならなかったのですが、その後調べると、フィリピ遺跡はキリスト教世界においても有名な場所で、新約聖書のなかにパウロが市民に宛てた「フィリピの信徒への手紙」として残っています。 実際にパウロが訪れて宣教活動を行い、また牢獄に投獄された史実は確認されていません。 しかしマケドニア時代からほぼ400年にわたって、歴史の舞台で重要な物語をつくったフィリピ遺跡の奥行きを、後々に知ることになって不明を恥ずるばかりでした。 次はトラキア、ブルガリアの旅です。 つづく
by kakusuzu
| 2019-08-15 12:20
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